Cure Aile ホーム > たまてばCOlumn > 今月の聞かせて!お姉様 > 今月の聞かせて!お姉様 No.042

第42回 時光佐和さん2024/04/24

やりたいことを常に追い求めてきた人生。思いのままに進めてきた事も振り返ってみれば、「時を超え古き良き物を未来に伝えていきたい」と自分なりの信念がありました。幼い頃、大好きな祖母が営んでいた町の小さな雑貨屋さん『時光商店』が原点となった、と話される時光さんにお話を伺いました。

CAになるまでの道のり

小学校時代に某TV番組の「ミステリーハンター」に憧れ、世界を巡る仕事がしたいと漠然と思っていました。しかし、岡山県に育った私は飛行機に乗ったこともなく、憧れはあったものの、別世界のものと感じていました。

大学進学で大阪へ。CADや動画作成を学ぶ総合情報学部へ進学しました。卒業後は、地元就職への思いが強く、岡山の広告代理店に就職。配属先は社長秘書でした。編集を希望する思いから、雑誌編集を任されている同期を羨ましく眺めていたこともありました。

入社して2年経った頃、「昔CAをめざしていたんじゃない?」と姉からの一言があり、そこで方向転換を決めました。当時CA採用は契約社員のみ。その上25歳までの年齢制限、当時23歳の私に残された期限はあと2年でしたが、思いっきって挑戦する気持ちになりました。

JAL地上職を経てANA客室乗務員へ

地上職も含め航空会社の入社試験をとにかく受けまくりました。30?40社受験したものの不合格の連続。ついにJALの地上係員に合格はしましたが、契約社員で就業時間も短く給料も激減。オペレーターを副業とし、2足のわらじ生活を10ヶ月経験後、ANAのCA試験にチャレンジし合格!晴れてCAとなることができました。当時の年齢はギリギリ25歳。滑り込み入社でした。嬉しくて目に映るものの色が急に変わったことをよく覚えています。

2001年に入社し同期も全員既卒。まずは2ヶ月の訓練の後伊丹ベースへ配属。JALでの地上勤務が大いに役に立ちました。

新人CAはフライト後に、先輩からアドバイスやコメントを聞いて回るのですが、驚きと同時に「体育会系だな、こんな世界もあるんだ!」と広告代理店時代との違いを楽しんだりしていました。

最初は国内線のみでしたが、ずっと国際線移行への希望を持っていました。チャンスが来た時にすぐに動けるよう準備しておいたほうがいい。との先輩の助言があり、ずっと英会話は続けていました。そのおかげで、2005年に国際線の話が出た時、一番に成田ベースに移行することができました。移行後は大変よりも楽しい毎日。ちょうどANAの国際線増便の時期とも重なりANAの海外路線は全部飛んだように思います。

主人との出会い

ワシントンDC線の担当になることが多く、今の主人はその路線で出会いました。
主人は体調が悪かったらしく、エコノミークラス真ん中に小さくなって座っており、ラバトリー前で、「体調が悪く、気持ち悪くて吐きそうなんです」と声をかけられました。実は私もその日はかなり体調が悪く、「私も体調が悪いのですが、満席なので休めません」と、かなり塩対応をしてしまいました。それがフライトの最後まで気にかかり、優しく接したところご主人より連絡先を渡されました。今でも思い出に残るフライトです。

スタッフアドバイザーとして2年間の人事部採用担当へ

フライト生活2018年まで17年間のうち、途中2年は人事部で採用担当をしていたこともありました。社内のスタッフアドバイザー(CAをしながら様々な部署で他の仕事を経験する)として抜擢され、採用担当に配属されたのです。日本全国の大学やフォーラムを回り企業説明会をしたり、面接の段取り、内定者との連絡など、採用から入社までを担当しました。オリンピック前でCAを採用する時期でもあり、トータル2000名くらいの採用に立ち会ったと思います。

CA引退そしてその先へ

ファーストクラス、チーフパーサー、採用担当も経験。一通りやりきった感があった時、主人のアメリカ駐在が決定しました。当時できたばかりの帯同制度(駐在が決まった時に2年間休職できる制度)を利用し会社を休職。その間に香港へも駐在しました。当時ANAには様々な勤務形態が選べるようになっており、帰国後は5割勤務(月の半分の勤務)を選択し、その後2年間フライトを続け退職しました。

退職後、妊活で思うように結果が出ず、鬱々と過ごしていた時期、鏡に映る自分をみて「なんて老け込んだの!」と衝撃。自分には何もなくなったように感じていたある日、友達とショッピングする機会がありました。洋服の試着やショッピングが楽しく、このような仕事がないかと考えたところ、顔タイプ診断やイメージコンサルタントにたどり着き、スクールに通い始めました。卒業後、1年程かけて開業準備。開業申請をしたちょうどその時にコロナが!オンラインに切り替え数名カウンセリングをするものの、出鼻をくじかれたような気持ちになりました。

ナバホパールとの出会い

私の夢の一つに、自分のお店をもってみたい思いがありました。生まれた岡山の自宅で、祖母が時光商店という小さなお店を営んでおり、いつか私もやってみたいと思っていたのです。時代に合わせて、お店はオンラインショップでとの具体案もあり、まずミルクガラスランプとナバホパールを取り扱うショップを作りました。

ナバホパールとの出会いはちょうどJALからANAへ転職する間、姉と2週間程アリゾナのモニュメントバレーを訪れた時です。ここは映画「フォレスト・ガンプ」の舞台となった場所で、映画を見た時に「私はここに行く!」と直感で感じたところ。この地でネイティブアメリカンのナバホ族が作るナバホパールと出会いました。

ナバホパールは通常、型取りした銀パールを基につくられていますが、私が理想とする手作り銀パール作家の作品と出会い、これを取り扱いたいと思っていました。ある日その作家さんの作品を一手に引き受ける方からInstagramのDMをいただき、取り扱いすることが実現したのです!思わず鳥肌が立ちました。

岡山への思い

新たな活動として、地元岡山の魅力を発信する「Time threes」を立ち上げています。
Time threesとは、私の名字「時光」→時3つから思いついたもの。過去、現在、未来を表し、過去から受け継いだものを、より良い形にして未来に送り出し、今を輝かせる。という意味を込めています。岡山を知ってほしい、岡山と繋がりたい人をつなげることを目的とした交流会。たった4名から始まった会も、今では30名くらい集まってくれるようになりました。



オンラインショップで取り扱うナバホパールも、ナバホ族につたわる子から孫へと受け継がれる伝統工芸品。私がやっていることに改めて共通点があるのだなと今更ながら感じています。

URL:https://naaghaii.timethrees.jp/



時光佐和さんにQuestion♪
転職して、CAだったから良かったこと,,,苦労したこと,,,
◆CAでよかったこと
同期や先輩に恵まれたこと。
田舎コンプレックスを持ちながら、そんな自分でも夢が叶うんだと自信になった。
諦めず努力すれば夢を勝ち取ることができる。

◆苦労したこと
世間一般がもっているCAのイメージ、偶像といった型にはまらないといけない。と自分で思ってしまっているところ。
エアラインを辞めて転職を考えている方へのアドバイス
CAは一生懸命で、頑張り屋さん。CAのお仕事以外は何もできないと卑下する方が多いと感じる。CA経験があれば何でもできる(根性が備わってるはず)と背中を押してあげたい。
やりたい気持ちややる気が大事。迷ったら挑戦してみて!トライすることに意味がある。
時光さんのとある一日
06:30 起床
07:30 朝食(夫と犬が散歩から帰る頃)
08:30 洗濯などの家事、SNS
10:00 オンラインミーティング
12:00 昼食
13:00~15:00 ビジョンボード講座(オンライン)
15:00 コーヒータイム
16:00~17:00 犬の散歩
17:00 買い物、夕飯準備
19:00 夕飯
(NetflixやAmazonでドラマ映画鑑賞しながら)
21:30 オンラインミーティング
22:30 お風呂、ストレッチ
24:00 就寝
時光さんのMy Rule・大事にしていること
月に一度は両親の顔を見に帰省する。
喧嘩しても次の日に持ち越さない。
毎朝六方拝をして感謝する時間を作る。

☆時光佐和さんへのお問合せは、こちらへご記入ください。