第76回 From London vol.162026/02/17
『温故知新』
1月は正月祝いも早々に切り上げ、卒論を提出し、来たる渡英日に備えて、スーツケースのほかに生活用としてカーゴのアローワンス分に寝具や最低限の生活用品を詰め込んでいた――あれからもう30年になります。
未知の業界に飛び込み、社会人一年生になる期待と緊張の中で、自分が知らないことの方が、知っていることの何倍もあるという自覚だけはありました。それを少しでも埋めようと、人生の先輩である親戚や知人、友人を訪ね、挨拶回りも兼ねて、さまざまな心構えを伝授していただいたことを思い出します。
1月は正月祝いも早々に切り上げ、卒論を提出し、来たる渡英日に備えて、スーツケースのほかに生活用としてカーゴのアローワンス分に寝具や最低限の生活用品を詰め込んでいた――あれからもう30年になります。
未知の業界に飛び込み、社会人一年生になる期待と緊張の中で、自分が知らないことの方が、知っていることの何倍もあるという自覚だけはありました。それを少しでも埋めようと、人生の先輩である親戚や知人、友人を訪ね、挨拶回りも兼ねて、さまざまな心構えを伝授していただいたことを思い出します。
イギリスの冬の色です。
それから数か月遡ります。
自分が何を知らないのかすら分かっていなかった就職活動中、強い衝撃を受けた出来事がありました。エアライン受験生が身体検査を受けるクリニックでのことです。
問診票に記入し、名前を呼ばれて診察室に入るや否や、担当医は開口一番、私の筆圧や字の癖、何より走り書きであることを指摘しました。
「自分の氏名を、落ち着いてしっかり書けない人間に、どんな未来があると思うか?」
毎日の忙しさの中で、大事なことを疎かにしていた自分を正面から突きつけられたようなその一言に、社会人になることの厳しさを突きつけられました。浮き足立った心を見透かされたようで、背筋が伸びる思いがしたのを覚えています。
ウエストエンドのアートデコ調グランドカフェ The Delaunay
今一度、しっかり地に足をつけて。
初心を忘れず、マニュアル読みや卒業に向けた準備を万端に整えようと精進しているうちに、渡英日まではあっという間に過ぎました。正直なところ、日本を離れる意味も、クルーになるという意義も十分に理解しないまま渡英便に搭乗していたように思います。
降り立ったヒースロー空港は、まだ午後4時だというのに、すでに辺りは薄暗く、スーツケースをピックアップしてから向かった訓練センターのあるガトウィック空港行きのバスの車窓は、関東の冬とは質の違う、グレー一色の世界でした。
不安に押しつぶされそうな気持ちを和らげてくれたのは、同期たちの屈託のない笑顔。そして、訓練センターを颯爽と歩く洗練されたインストラクターや先輩クルーの姿への憧れでした。ウィングを手にする日までの長い訓練と、卒業後の住まい探しが、そこから始まったのです。
それから30年。
今年は、唯一まだ在籍しているセミ同期と、感謝と祝いのメッセージを送り合いました。間もなく、今年もまた年に一度の保安試験がやってきます。
The Delaunay
Kedgeree ケジャリーは、カレー風味の鱈のライスディッシュで、ポーチドエッグのクリーミーな黄身のコクとレモンをぎゅっと絞った爽やかな酸味とでなんとも美味しい味わいの料理
Kedgeree ケジャリーは、カレー風味の鱈のライスディッシュで、ポーチドエッグのクリーミーな黄身のコクとレモンをぎゅっと絞った爽やかな酸味とでなんとも美味しい味わいの料理
今日はリビジョンを兼ねて、街でランチへ。
コベントガーデン周辺を朝散歩した後、チャイナタウンを横目に、ベトナムのフォーをいただきました。サービスチャージ込みで£17。円に換算すると約3600円......思わずぎょっとする金額です。
ランチのフォー Pho Soho
入社当時のロンドンには、ラーメンや松花堂弁当が食べられる日本食店は、指で数えるほどしかありませんでした。
それが今では、寿司やラーメンはすっかり市民権を得て、イギリス人の食卓に上る日本食の定番となっています。
移民受け入れを巡っては賛否両論ありますが、イギリスは古くから移民が深く根を下ろし、独自の文化を花開かせてきた国です。
イタリアン、フレンチ、スパニッシュ、ポルトガルといったメジャーどころに加え、インド、パキスタン、トルコ、ギリシャ、さらにはシリアやペルシャ料理まで、実に多国籍で選択肢は尽きません。
宗教上の理由で食べられないものがあっても困らないよう、HalalレストランやVegan店も充実しています。紅茶の国と言われるイギリスですが、近年はコーヒーショップが軒を連ね、さらにここ数年は、そこに一石を投じるかのようにチャイティーが人気を博しています。
回転寿司さながらのコンベアレーンにチーズが各種。
人種の坩堝であるロンドンでは、夏でもレザーを着ている人がいれば、冬に短パンとブーツという我が道を行く人もいる。一方で、洗練された装いの紳士淑女も自然に溶け込んでいます。
多様性が当たり前に存在するこの街で暮らしていると、「正しさ」は一つではなく、価値観は常に更新され続けるものなのだと実感させられます。
それでも、三十年前のあの診察室で投げかけられた一言や、初めて降り立ったロンドンの重たい冬空、訓練センターで憧れの眼差しを向けていた自分の姿は、今も変わらず心の奥にあります。
年月を重ね、環境や常識が変わっても、仕事に向き合う姿勢や、自分を律する感覚は、あの頃に教えられたものの延長線上にあるのだと思います。
ワインとのペアリングも楽しめます。
2週間後に控えた保安試験。
マニュアルを読み返し、基本に立ち返るその時間は、単なる確認作業ではなく、自分自身を見つめ直す機会でもあります。
過去を知り、今を省み、そこから新しい気づきを得る。
三十年を経た今だからこそ、「温故知新」という言葉の重みが、以前より確かに胸に響いています。
Albert Bridge これでまだ夕方前です。
